真清田神社

  • 真清田神社の歴史
  • パノラマ動画 真清田神社
真清田神社の由緒

真清田神社

  • 境内と社殿概要
  • 真清田の由来
  • 真清田の歴史

境内と社殿概要

境内は一宮市の中心、本通りの正面目抜きにあり、一宮市が、神社を中心として発達した町であることが分かります。 周囲には古来、土塀をめぐらしていました。その辺りを馬道具の飾立場とすると共に出店を設け、門前市も盛大に開かれていました。
本殿・渡殿は平成18年に文化庁より国の登録有形文化財に指定されました。
※祭文殿、拝殿は現在登録申請中

古い御社殿は特有の尾張造りの形式を備えた神社でしたが、

  • 昭和20年:戦災で焼失。
  • 昭和32年:本殿以下諸社殿の再興
  • 昭和36年:楼門が再興
  • 昭和40年:御本殿向かって右に摂社として、服織神社が造営
  • 昭和43年:神楽殿並斎館の竣功
  • 平成 5年:境内裏山に別宮三明神社を造営

といった出来事を経て、現在は、正面参道の楼門を入って正面に拝殿(切妻造)、
祭文殿(切妻造)、渡殿(切妻造)、本殿(流造)を有する、華麗雄大な御社殿です。

真清田神社

真清田の由来

当社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。

今でこそ、繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたため、真清田(ますみだ)と名付けられたといわれています。

真清田の歴史

当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。

江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。

戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。
尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが、市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市のみとなります。

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